昭和46年09月23日 朝の御理解



 御理解 第44節
 「狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。」

 今日は、ここの教会の縁につながる、御霊様達のいうなら御霊の大祭とでも申しますかね、秋の御霊祭りが行われます。私は御霊祭りの当日、この御理解を頂くと言う事は、何か深い意味が有ることだと、ここを今朝頂いて改めてそれを思います。御理解第四十四節と言うのは、四十四節と書いてある。しじゅうし節と、この四十四節というそこにも、大変な意味を感ずる。お互い死したる後神に祀られるという、神になることを楽しみに信心せよと言う事。
 これは金光様の信心をさして頂いておればいわゆる、御霊の神とこう言うて拝む。御霊の神と言う事ではないと思う。金光様の信心をさせて貰えば誰でも御霊の神に祀られる。だから神になると言うのぢゃない。死したる後に神に祀られる。神になると言う事を楽しみに信心せよと言うのである。こうして皆さんが朝晩しっかり信心の稽古をなさる、こうして朝の御祈念に一生懸命お参りになる。
 その一生懸命信心の稽古をさせて頂くのも、お参りさせて頂くのも、様々な修行をさせて頂くのも、死したる後、神になることを楽しみに、この様な修行が出来ておるのでなければならんのです。死んだから御霊の神に祀られるということではないのです、生前このようにして信心の稽古をさせて頂くその稽古をさせて頂くそのことがです、金光教の信奉者の総てが生神を目指さねばならん、そういう道なのだと、そういう信心なのだと、いわれております。
 この方のことを生神、生神というがこの方ばかりが生神ではない、皆もこのようなおかげが受けられる、何故、受けられるか、私どもは万物の霊長だからであります、万物の霊長としての、生まれながらにして、神の氏子としての内容を、備えてこの世に出て来ておるのです。それがいつのまにか我情、又は我欲がいっぱいの内容になってしまっていわゆる、冷静を亡くしてしまって、性が変わってしまっている。福岡の吉木先生がようおっしゃっとった。
 性が変わるということは、もういよいよつまらんばいと、例えばタオル、ハンカチでもそれこそ煮メのごと汚れてから真黒うなったのをそのまましとくと、そのシミから汚れから、性が変わってしまってビリビリ破れるごとなるとおっしゃっとられました。人間でもです、人間の面被っとるだけ、その内容と言うものはそれこそ鬼ぢゃろうか、畜生じゃろうかという様に性が変わってしまう。神様の性根を頂き乍ら、我情我欲、いわゆる垢がしみこんでいつのまにか性が変わってしまう。
 性がなかごとなってしまう。ビリビリ破れる様になる様に悪い事しても良心がないとぢゃろうかという様に平気で、我情我欲をする様になる。それは人間として当たり前の様に金を儲かる為ならもうそれこそ、人の茶碗を叩き落としてでもと言う様になる。もう畜生と同じ事。金光大神はそこん所をです、皆が生神になれるんだと何故か、万物の霊長なんですから、犬やら猫がいくら例えば修行した所で神様にはなりません。
 人間だから万物の霊長だから、ここでは狐狸でさえと仰っておられますが、狐狸なんかがね神になれるものを持って居る筈がない。これは日本人の何か変わった御利益何かがあると、もう木のかけらでも拝もうとする。それこそ狐狸でも拝もうとしたり、祀ったりした例は日本にも沢山あります。だからここでは、狐狸でもと仰るのですけど、実を言うたら狐狸が神になれる筈がない。どんなに例えば[ ]芝居なんかでは、どんな山奥に何百年と修行した白狐でこざいます。
 その白狐の化身が神に祀ってくれと言うて来た様なです。出鱈目な話がありますけれども、どんなに何百年修行したというて狐が神になれる筈がない。それを拝んだりする人間はもう狐と同じ事ですね。御利益さえ貰えば何でも拝もうという根性が。金光様の御信心はそうではない。私共は死んだから御霊の神になるのじゃない、御霊の神と神とはいうけれどもいわゆる死したる後に神に祀られる事を楽しみに信心せよと仰る。
 金光様の信心しよりゃ神に祀られるのではなくて自分自身の心が神に向こうて行きよる事を楽しみに日々信心の稽古をせよというのであります。死んだ気で励め務めよ、徳もつく人も助かる道も開ける。これは私が修行中の時分に頂いた詠であります。いわゆる私は今日の四十四節ということ、これはね四十と言うことはいつもと言う事、絶えず、四節というのはいつも死んだ気でと言う事、これは大変きびしい事の様ですけども実はそんなにきびしい事ではない。
 いわゆる我情我欲を放れてと仰るが、その姿なのです。我情我欲を離れておるといわゆるどうでもよいという心が生まれて来る、あぁでなければならない、こうでなけれなならないと思い煩う事がない。出たとこ勝負その時点その時点に於いてです、その時点を有り難い事じゃなあ、勿体ない事じゃなと言う事になる。私は昨夜御祈念を終わらして頂いて、額人さん達は宮原先生を含めて男女十名、笛が二管、しちりきが二管、しょうが一管、琴四面、太鼓一人、ちょうど十名一生懸命楽の稽古があっておりました。
 昨日無声、歌のない大変に優雅なもんです。私はそれをじっと一時間余り聞かせて貰いよった。先生どうでしょうか、ちっとは上達した様に聞こえるでしょうかと言うて言われますから、上達しとるか、上達しとらんか私は素人ぢゃけん分かりませんが、皆さんが一生懸命こうやって楽の稽古をなさっておるのを見てから、もう本当に心の中が何とはなしに有り難うして、どうしてこげな事になって来たぢゃろうかと思うて有り難うしてたまらんと言うて話した事でした。
 まだようやく教会になって四年、まあこの十月で丸四年、まだ丸四年位の教会でこれだけの楽人さんがこれだけ難しい曲に取り組んで、しかも熱心にこうやって信心の稽古をさせて頂いて、まあどうやら素人の私が聞いたどころでは、まあどうやら今日の霊祭には無声で出される感じの稽古の中にどうしてこう言う事になって来たであろうかと言う事なのです。それは楽だけではありません。いわゆる合楽の御ヒレイの総てがそうなのである。御ヒレイの一端なんですね。
 楽も、楽だけがあの教会は楽だけが素晴らしいかと言うのではない。信心そのものが言うならば素晴らしい。その素晴らしい信心にすべての事が例えばまるしょう達のブラスバンドでもそうである。あれだけの楽器がようも揃うた。それをもう一年余りも稽古しよるが、どうやらこうやら、あーしておかげ頂いて行きよる。いわゆる楽とかブラスバンドの事だけではない。
 すべての事がこの様な働きの中にあると言うことが自分乍らに、どうしてこの様な事が出来る様になったであろうか、どうでもこうでも楽だけはしっかりやらにゃいかんばい。子供達にブラスバンドを始めなさいと誰も言うた事ぢゃないけどもそういう働きが起こっておるということ、その元はどこにあるかと、ならそれを元を言うならばです、私が神を目指しての信心させて頂いておるからであります。
 皆さんに於いても、だから同じでなからねばいけません。金光教の信心は生神を目指す、なれる、なれんは別である。そこに姿勢をつくる。おかげを頂くためじゃない、神になれる事を楽しみに信心するのである。だから信心のために生活のすべてがある。生活のすべて、そこには難儀というものがある。けれどもそれは、難儀では決してない。神になるための手段なのだ。神になるためにはやはりそこを通らねばならんのだ、してみるとそのこと自体も有り難いのだ。
 キリスト教では十字架を背負うということを申しますね。難儀な事を十字架をいつも背負うておる。だから苦しゅうしてこたえん。仏教ではどういう事をいうかと言うと仏教の思想で言うと、この世では仕方がないと言う。だからあの世で極楽、この世で地獄の様なくらしをしておってから、あの世で極楽のあろう筈がなか、これは本当ですよ。だからもうこの世では仕方がないからと諦観あきらめです。これが仏教思想、あの世で阿弥陀如来のお迎えを受ける。だからその事が有り難いとしておる。
 キリスト教は難儀そのものを、おかげとせずに絶えず十字架を背負っておることに、金光教ではそうではない、一生が修行じゃと仰る、どういう修行かと、私どもが神になるための修行である、それはもう天地ほど違うです。何様でも同じことのようにいうばってん絶対違うです、いわゆる教祖金光大神の思想というかね、教えというものはね、神になることが楽しみなんだもの、生活のために信心があるのではなくて。
 だからそういう信心のための、信心とは私が、神様になることのために。全てがあるんだと言う事、私が神様になるためには、この総てが無からなければ、神様になれんのだと言う事、大変な違いでしようが。その観点が、それと信心しょるのに、どうしてこう難儀が続くじゃろうかと言う様な、けちな信心をしておっては、つまらんと言う事、死したる後、神に祀られ神になること、教祖さまにある御信者が、金光さまあなたは生きどうし生神様、生神さまというから。
 生きどうしに生きられるという風に思い違いをしたそしたら、教祖さまが仰っておられます、この方とても塩漬じゃないと仰った、塩漬じゃいつまでも悪うならんと言う事、いつまでも生きられることじゃないと言う事。この方の信心は死したる後いよいよ皆んなから拝まれるようになることが、永生、生通しだという意味のことをおっしゃっとられます。だから後々です。
 それは子供達が先祖を拝まんことはありません、けども教祖がここで仰るのはです、生神様あなたのおかげで今日が有りますとお礼を言う様な、考え方でなければならんと言う事。例えば、大坪家なら大坪家の後々の人達がです、先代のおかげで今日がありますと拝ましてもらうような、私にならなければならんと言う事なのであります。それにはお互い本気で四十四節にならなければいけません。
 死んだ気で励め努めよ徳もつく、道も開ける人も助かる、そういうおかげを一人一人が頂き一人一人がそれを願わなければいけません。改めて思いますね、玉水の湯川先生が金光教の信心をこのようにいうておられる、「自分に都合の良いことは喜び、都合の悪いことを不足にいうのは、未だ本当の神様がわかっていない都合の悪いことも喜ぶようになれば、一切が自由になり、一切がっさいが喜べれば、一切がっさいが自由になる金光教は生きながら極楽」と仰る、金光教の道とは、そういう道なのです。
 生きながら、あぁ極楽というものを頂かずして、あの世に極楽があるとは思われん、もうこの世はしようがなかけん、あの世で極楽へ行こうというたって、それはしらごと行ける筈がない、もうこの世が苦しかけん、あの世で極楽へ行こうと思うてから自殺する人がある、もう絶対ゆうべの御霊様の丁度今朝二時半までかかりました。これはもう御霊様の御祭り度に感じることなのけど、それこそ自殺行為をしておる、御霊達の助かってないのはもう本当に私は皆にね。
 目に見えないことでしょう聞こえない事でしょう、あれが何事いいよるかといわれましょうから、いいもしませんけれども、それはもう本当に哀れなことです。神様に頂いておるこの寿命というものを、自分で断つなんて御無礼というかこれほど御無礼はないです、分らんから、もうこの世が苦しかけんでというて、もうこの世を逃避する、この世を逃げようとする、逃げた先は極楽かというと、それこそもっとひどい仏教の言葉を借りるなら、地獄である、ああしもうたというてもしょうのなか。
 だから本当にこの世でね、魂の清まりを願っての信心でないと、つまらんて。昨日、夜の御祈念に善導寺の原さんが今日何か物を片付けよったら箱の中に「根賀以」という新聞がでよったそれが全部とってある、それを一寸見せて頂いたら、親愛という欄に文男先生が書いておられる、私も昨日は期せずしてですね、丁度ここにあったから見せて頂きょりましたら、久保山陽子さんが神愛の欄に書いてあるのを読ませて頂いて、蟻の歩みではあるけれども一歩一歩親先生に喜んで頂く様な信心を。
 本気で身に着けなければならんと言う事で最近なしめております。蟻の歩みで良いのです、一歩一歩でいいんです。我が心が神に向ていく姿勢をとることなのです、信心とは原さんは神愛欄で文男先生が書いておるのを見てから、お道の信心さして貰うなら、表行はいかんと言うけれども表行の一つもできずして、信心ができるはずがない、と思うてあらゆる表行もさせて頂いた。
 そして私は最近決して腹は立てんという信心をさせて頂いておるというて折る様な事を、書いてあるのを読ませて頂いて、大変感激したと原さんがいうておられました。これは神に向かうていきょる姿なのです、どんな事があっても腹は立てんぞというのは、もう神になって行きょる稽古なのです、もう腹を立てねば馬鹿んごという人がありますもんね。そげな事いわれてから、あんた黙ったのと言うそういう事では神様になれんです、一切合切を有難く受ける稽古にはならん、金光教はこの世は極楽と仰る。
 そういうおかげになってこない、だから表行も一生懸命せんならん心行も本気で一生懸命せんならん、しかもそれは文男さんは苦しかろうという顔もしとらんであしょうが、やはり、信心が楽しいというのです。そこのところは例えば腹立てんというのですから、死んだ気でやらなければ出来里事ではありません。四十そういう四節、そういう思い込みをもってお互いが信心の稽古をさせて頂く事が言葉を借りるなら、死したのち神に祀られると言う事を、楽しみに信心しておる姿なのです。
 それを生きとるうちに儲け出しとかんならん、などそう言う事がですね、問題になるようなことでは金光様の御信心にはならん、一歩一歩自分御心が神様に近づいていけれる道を教えて頂く事が有難いのである、そこで今日私はキリスト教と仏教の側をとって金光教の思想と言うか、お道の信心の頂き方というか生神金光大神の頂かれた道というものを、成程人間だから雨にも風にも会うけれどもそのこと自体をです有難いと心得て、有難いと合掌して受けて行けれる道なのである。
 だからそこをこの世に合楽を感じる様な、おかげが頂ける訳であります。狐狸でさえとここで仰っておられますけれども、狐狸や牛やら馬が神にどれだけ修行した県と言うて成れる訳がなか、人間万物の霊長だからこそ成れるのである、けどもその人間万物の霊長もです、信心もなからなければ信心のみちも分らん、信心のみちも分らん神の教えも分らない人間を本当にあわれなものぞと、教祖は仰っておられる。
 実にあわれ、なら金光様の信心しとってもそこんところに焦点をおかんなら、矢張りあわれなのです金光様の信心しよるけん、死んだらちゃんと子供たちが御霊様にまつってくれるじゃないの、だから仏様になるのじゃない、神になるのじゃない、もうこの世であの人は神様じゃろうかと、言われる程しのおかげを現して行かなければそれを楽しみにならんのである。本当に一つ神になる事を楽しみに信心せよと仰せられる所をです、一つ本気でここんところを歩ませて頂きおかげを頂いて行きたい。
 今日の御霊のおまつりには、そう言う様な事も何も知らずに、死んでいった方が殆どであります、私共はこれを知った、私共はそれを聞いた、だから私共の信心によってです、(?)の中に苦しみの霊が難儀の霊があるならば、それを導いて助けて行こうと言う様な気持ちで、これを遺族としての責任においてです、本気で真心をこめてのおまつりを拝まして頂きたいと思いますですね。
   どうぞ。